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2013年4月22日 (月)

ごりおし評

とりあえずはじめてみたい。

1.「踊る」
古今東西を問わず、人間が暮らすところには踊りがある。古来より「奉納されるもの」として踊られるケースが多く、それらはその土地固有のアニミズム、シャーマニズムと直結している。時を経るにしたがって踊りはその呪術性を薄れさせ、娯楽性を高めながら、ひとつの芸術へと昇華されてゆく。
ここで注意しなければならないのは、そのように様式化・現代化された踊りの中にも古来より受け継がれた精神はしっかりと宿っている、ということだ。ダンスホールで、バレエ劇団で、氷上で。舞われるそれらの踊りにはたとえば日本の八月の半ばに各地で執り行われる盆踊りと同質の血を持っている。オリンピック等の開会式ではかならず躍動的なダンスが披露される。会の成功を祈願して舞を奉納するのだ。その性質は人類が滅びるまで不変であろう。

この歌の冒頭部分ではまずそのことが提示される。我々は踊りを通じて大地に、神に、命に、畏れと感謝を捧げながら生きている。

2.「顕現」
第二部ではその畏れの対象の顕現が暗示される。
「神は小さき所に宿る」という言葉があるが、この一連では「そのもの」は台所に宿っている。
すべての命が生き延びるためには命が必要である。その命を、もう一度命へと還元する場所として台所はある。同時に、台所は浄めの場でもある。野菜を調理する前に水で洗うのは、なにもついた泥を落とすためだけではない。命を奪った行為での穢れを洗い落とすという意味あいも含まれているのだ。
また、台所には水があり、土があり、火がある。元来人間には制御し得なかった元素が集う場所でもある。「顕現」の場所としてこれほど適切なところもあるまい。
顕現したものは人間の男性の姿をとっているという。父なるもの、偉大なるもの、のメタファであろうが、わたしは少しばかりの違和感をおぼえる。どうしても人智を越えた自然には産むもの=女性のイメージがつきまとうので。しかしそこがまた鑑賞のポイントであるかもしれない。男性の力強さ、雄々しさ、に託しているとみることもできる。
発現したものについて多くは語られていない。しかしこれは「台所」に「顕現した」という事実だけ抑えておけばよいのである。

人が元来扱いえな得かったものの集う場所に、おそるべきものが発現した。罰するものであれ、律するものであれ、その顕現をこそわれわれは誉むべきなのである。

3.「自戒」
そして、そのことは受け継がれなければならない。忘れないということ。たとえば発明王トマス・エディソンを誰もが知っているように。
大いなるものを畏れとともに讃え続けてゆくこと、そのことがわれわれの使命のなのである。

この第三部ではそのことを強く説いている。もはや常識となるべき知識ではあろうが、われわれはやはり慢心してはるならないのだ。

4.「Fiesta」
最終節となるこの部分で人は「そのもの」を讃える祭をひらいている。
鳴るのは笛であり、その音はあくまでも明るく。
人々が踊りを奉納する優雅なてのひらの動きも表現されている。
この部分こそ、大地への、命への、そして食への感謝を最大限に表現する、いわば壮大なフィナーレである。
人々は舞い、唄い、最大限のパフォーマンスで「そのもの」(=もはや言わずもがなであろうが)を讃える。

その様子が実に躍動的なオノマトペで構成されているので、引用しつつ紹介したい。

ピーヒャラ ピーヒャラ
パッパパラパ

ピーヒャラ ピーヒャラ
パッパパラパ

いかがだろうか。なんとも、こちらまで思わず踊りだしてしまいそうになるほど、いきいきとした描写である。

人々の舞、そして音楽はピークをむかえ、そしてひとつの合図とともに終息してゆく。
太鼓の導入である。

ピーヒャラピー 踊る ポンポコリン

この「ポンポコリン」の音とともに人はある種のトランス状態から解放される。
残るのは笛の音の残響、そして踊り狂ったために引き起こされるひとつの生理現象、すなわち空腹、に気づくのである。

こうしてひとつの儀式を完了させ、人はまた台所へと立ち返ってゆく。
命に、大地になんどでもなんどでも、生きている限り感謝し続ける、台所というその場所へ。


(完)

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